2620159月

いじめの周辺知識 26/30

クラスのいじめ問題は担任に責任がないとはいえない、

しかし担任一人に責任を押し付ける問題でもない

いじめ問題は行政のシステムに頼っても解決しない。

いじめる側の価値観を変えない限り現場で指導があっても現実は何も変わらない。

いじめられている当事者はいじめの本質を理解し、

家族や信頼できる友人に支えてもらえながら自分を守るしかない。

学校や教育委員会等は現場の組織として援護射撃やサポートはできても

根本的な係わり合いはできないと思っていたほうが間違いはない。

システムで人の価値観をむりやり変えさせる事はできないからだ。

では、問題解決の取り組みとしていじめられる側の孤独な戦いにしないために具体的にどうしたらいいのか。

結局はシステムに組み込まれている人の人間性の問題による。

人の問題はシステムでは解決しない。

人の問題は人でしか解決しないのだ。

学級担任の価値観、人間性、危機管理能力によりある程度いじめ問題を縮小する事は可能だ。

はっきり言う。自分のクラスでいじめが起こりそうかどうかはよく生徒を見ている担任なら分かるはずだ。

「知らない」と言う担任は職務怠慢だろう。そんな言葉を通用させてはいけない。

「知らなかった」のではなく「巻き込まれたくないから知らないことにしている」だけだ。

知りたくないからあえて生徒を見ない。

そういった担任のクラスは「いじめ」を許す空気を作っている。

担任の見てみぬフリは生徒を増長させる。

それは「いじめ」に間接的に加担している事になりいじめる側の生徒と共犯なのだ。

自ら手を下すことはできないのでいじめる側に自分の代わりをやらせているようなものだ。

心理的にはいじめる側と同じ価値観だろう。

担任は生徒の個性を把握してナンボだ。

生徒の命を預かる覚悟をもって欲しい。

自己主張が強い子はいじめる可能性、おとなしく自己主張ができない子はいじめられる可能性を考えて

普段から危機管理を行なわなければならない。

元気がない子に目を配り、目をかけて声をかけて「先生は見ているぞ」というアピールをクラスに示す事はひいきではない。

クラスで沈みかけている子を水面まで引き上げる事をサボってはいけないのだ。

担任にプレッシャーを与えるのではなく当たり前のことだと自覚して欲しい。

現場で生徒に一番近い大人としてマニュアルではなく、自分の生き方や考え方を自信を持って生徒に伝えて欲しい。

仮に百歩譲って担任が「いじめ」に気付かなかったとする。

しかし、いじめられている子が訴えてきた時は自分のクラスで何が起こりつつあるかを知る事になる。

その後のクラスの空気のもって行き方によって「いじめ」の状況は多少変わるはずだ。

「いじめ」を増長させない空気作りを行なわない担任は「いじめ」加担者になるという覚悟を持たなければならない。

自分のクラスで「いじめ」が起こった場合、担任に責任がないことはありえない、これはシンプルな事実だ。

しかし、今の教育現場に「いじめ」問題に向き合い、いじめられる側をフォローし、

いじめる側ににらみをきかせて心理的教育を行なう骨太の教師はほとんどいないだろう。

マニュアルに沿ったクラス運営に頼りすぎているせいで、

それぞれのクラスの問題を担任が自分の力で捌くことができなくなっている。

それは担任の人間としての自信のなさが原因だ。

教師として、担任としてうまくまとめよう、処理しようと思うからプレッシャーで潰されそうになる。

うまくできなかったらどうしようとか、あまりにも先のことまで勝手に頭の中でストーリーを作り上げてしまっている。

そして、自分の作ったプレッシャーに自分で勝手に潰されて精神的に疲れてしまう。

自分が楽になるためにクラスの「いじめ」を無かった事にして事なかれ主義を決め込んでしまう。

自分は悪くない、勘弁してよと逃げの気持ちが心の中にあるのだ。

個人主義なので任された仕事に対してはきちんとやり遂げるが、

クラスの「いじめ」に対しては逃げ腰になる。

民間会社では部下の問題行動や失敗は上司の責任になる。

上司はそれを自覚して「部下の不始末は自分の責任です」と潔く頭を下げ事後処理を行う。

しかし、学校組織は上下の関係はないに等しい。

担任はそれぞれが独立した学級王国のトップなので教頭、校長であっても自分のクラスに入ってきて欲しくない。

学校組織は会社組織のような「上が責任を取る」意識が乏しい、というかないに等しいだろう。

そのような土壌の中で担任自身のプライドや教職員評価も気になるため

自分をさらけ出して教頭や校長に助けを求める事はしないし、

求めたところで教頭や校長も自分の評価に関わる事なので親身になってくれるかどうか分からない。

だから、学校や教育委員会のシステムはいじめ問題が起きた時に全く機能しない。

システムではなく人間が原因で機能しないのだ。

正義感溢れる熱血教師がいたとしても一部の教職員の突出行動は潰される。

しかし、そこで止まっていてはいけない。

「責任」という言葉をもっと真摯に現実問題として受け止めなければ前に進むことはできない。

担任は、「いじめ」の「責任をとる」ことは漠然と自分の人生が終わるくらい絶望的な出来事だとでも思いすぎではないか。

そもそも「いじめ」の責任など取れるものではないのだ。

「いじめ」はこの世に存在する現実だからだ。

そんなことではなく、いじめ問題に対する自分の対処がここまでしかできなかったという事を認め、

外部に伝えることが「責任をとる」第一歩なのではないだろうか。

そこは重要な落とし所でそれができて初めていじめ問題は解決に向けて動き出す。

担任では手に負えない事をさらけ出して周囲を巻き込み解決の方向性を見つけ出すのだ。

言うまでもないがその判断は早ければ早いほうがいい。

いじめられる側が追い詰められてしまっては遅いからだ。

もう一度言う。いじめ問題は担任に責任がある。

しかし、それは担任が悪いといっているのではない。

担任の事態展開の想像力と迅速な行動力、

つまり危機管理能力によって問題が炎上するが鎮火するかの責任があるということだ。

担任は自分のことばかり考えず、

こうしている間もいじめられている子が苦しんでいる姿を想像するべきだろう。

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