2620157月

いじめの周辺知識 23/30

差別と「いじめ」と「差別+いじめ」

差別と「いじめ」はどうちがうのだろうか。

国が違う、性別が違うなどの基準があって

それに当てはまらないものを排除するのが差別だろう。

今では考えられないが、一昔前にあった外国人お断りの店などがそうだ。

もし、間違って外国人がその店に入ってしまったら

大方は「出て行ってください」と「排除」されて終わりである。

「いじめ」とは差別のように明確な基準はないが相手に苦痛を与え

その様子を自分の娯楽にすることではないか。

外国人お断りの店に間違って外国人が入ってしまったら

「すみませんが出て行って下さい。」と促さず、あえて店内に入ることを拒まず、

仲間内であからさまにひそひそ話をしたり、無視したり、

言葉が通じないことをいいことに

日本語で悪口を言ったり馬鹿にしたりすることが「いじめ」だろう。

差別もいじめもされた側にとっては苦痛だが、苦痛の種類ははっきり違う。

いじめのほうが残酷だ。

差別は排除したら終わりだが「いじめ」は排除しない。

排除したら「いじめ」ができないからだ。

とことん自分の周りにおいていたぶり続けなければ「いじめ」ていることにならない。

何のために?自分の欲求不満解消および楽しみのためだ。

厳密に線引きはできないかもしれないが、

差別と「いじめ」は似て異なるものだ。

そう考えると、現在の学校におけるいじめ問題の中には

差別と「いじめ」両方の要素を持っているものがほとんどだ。

排除しておきながら積極的に近寄ってきて苦痛を与える。

「差別」「いじめ」「差別+いじめ」の3つは背景の心理的感情が微妙に異なっているといえるだろう。

たとえばネット上などで見ず知らずの相手に対する書き込み攻撃は、

必ず自分より知識や文章力が下と思われる人間に限られる。

まずいと思ったら深追いしない。

相手が苦しんでいる様子を見ることが目的ではなく

あくまでも自分のストレス発散と

ちょっとした優越感に浸ることがメインの「軽いいじめ」だからだ。

何度も言うが「いじめ」を行う事は情緒性が欠如した、

もしくは心が育っていない人間のストレス発散なのだ。

その感情を認めなければ先へは進めない。

根の深いいじめ問題は、

仲間内で仲間はずれにする「いじめ+差別」のパターンである。

そう言い切れるのは歴史から人間というものを学べるからだ。

いじめや差別は日本に限ったことではない。

むしろ、残酷さにおいてはヨーロッパや中国に比べるとまだましだと思う。

ともあれ日本は平安時代前後から独特の差別を続けてきている。

平安貴族の世の中では死や病気や罪などは穢れたものとして忌み嫌われていた。

それらに関連した仕事に就く人間は穢れているといった思想があり、

現実問題としてその人たちの仕事があるからこそ世の中が成り立っているにも関わらず、

その人たちを「えた、ひにん」と呼び不当な差別を続けてきた。

ひにんとは非人、人にあらずと書き、武士の世の中になってもそれは続いた。

江戸時代の身分制度の中でも「士農工商えた、ひにん」と最下層の序列であった。

要は人として扱ってもらえなかったということだ。

住むところも別、自由な恋愛などもってのほか、

同じ人間であっても明治時代までその差別は続いていた。

「四民平等」制度が明治にできたのは

その時まで平等ではなかったという証拠だ。

ヨーロッパでは古代ギリシャ、古代ローマ時代から奴隷がいた。

主人にこき使われ鞭打たれ命を落としても葬ってすらもらえないのだ。

日本のえた、ひにんとは少し違うかもしれないが、

人として見てもらえないという点では同じだろう。

それどころが、拷問を受けて命を落とすさまを喜んで見たという

国王や中国の皇帝の話は歴史書物で知ることができる。

歴史を振り返った時、

私達人間の心の中に差別や「いじめ」の心など無いとはいえない。

権力を持った人間は何をしてもいい、弱い者いじめをしたい、

そういった支配欲求が私達人間の心の中には埋め込まれているのだろう。

現在は昔のような絶対王政でも何でもない、

平等の世の中で、たくさんの暴君が人の命をもてあそんでいる。

これが今のいじめの姿だと言えるのではないか。

そう考えると、

いじめの原因を簡単に残酷なゲームやTVなど外部の物にに求めることは的外れだろう。


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